体 温




ぎし、ぎし、と、時折聞こえる何かが軋む音。

それから、間断なく聞こえてくる誰かの息遣い。

そして何か湿ったものが擦れ合う、音。

それが今の私に感じられる全てで、また、それ以外は今必要でない…。

目は開けているけれど視覚情報は皆無。

それはただ私の意識が途切れがちだからなのか、それともその状況を認識したくないという気持ちがあるのか


それは私にも分からなかった。






「ふぅ」

隣に横たわった彼が短く溜息をつく。

「お疲れさま」

「おいおい、随分な言い方だな。まるで俺ばっかり頑張ってたみたいじゃねーか」

「そうね、さほど事実とは差異がないと思うけど?」

「うわっ、ひでぇ。てかお前も感じてたくせに」

「っ…」

あまりにストレートな物言いについ赤くなってしまう。

もう慣れた、もう大丈夫と思った頃に予想を上回るパンチを繰り出してくるのは彼の得意技だ。

とはいえ、やられっぱなしじゃこっちの気が収まらない。

キシシシと笑う彼を横目で睨みつけながら私も反撃を試みる。



「でも、感じてたかどうかなんて私以外には分からないんじゃないの?」

「え?だって喘ぎ声が」

「演技かもしれないじゃない」

「え?マジで?あれ演技なの!?」

「例えばの話よ…」

はぁ、と溜息を一つ。

どうやら今回も私の負け、か。







「ねぇ、相沢君」

ベッドを出て服を着ながら、つい、いつもの台詞を口にしてしまう。


「名雪に悪いとは思わないの?」

私の言葉に彼は苦笑する。


「毎度の台詞だよな?」

「でも仕方ないわ。いつも考えることだもの」


彼と抱き合う時は、そういったマイナス感情も含めて全て忘れることができるけど、所詮それは悲しい現実逃避でしかないのかもしれない。

それに、これは親友に対する重大な裏切り行為だと十分に自覚している。

それでもこの幻想を手放せない自分が悔しく、でも少し嬉しくもあるのだ。


「もちろん、悪いと思うさ。むしろ罪悪感に近いものがあるかもしれない。これも毎度言ってるな」

「だったらどうして…」

「それでも俺はお前を手放したくないと思ってしまうんだよ、香里。これは理屈じゃない」

「結局そこに行き着くわけね…」





これまで、何度彼と肌を重ねただろう。

初めて彼を受け入れた時から数えて、もう随分と時間が経った気がする。

しかしまぁ、このままではまずい事は十分に理解しているつもりだ。

彼には恋人というものがいる。

つまり私は浮気相手ということになるわけだ。

生まれてこのかた、私は浮気相手のほうが幸せになるというエピソードを聞いた事がない。

私は勝てない戦いはしない主義だ。

だからこの戦いは非常に私の主義に反するのだけれど…。


「なんで乗っちゃったのかしら?もう少し賢いと思ってたんだけどな」

ふいにもれた呟きは、口にした自分自身が驚くほど、薄暗い部屋に響いた。

そう、止めた方がいいというのは分かっているのに。


現実というのはなかなか思い通りには進まない。






「ねーゆーいちー、今日帰りどっか寄って行こう?」

「どうせ俺にたかる気のくせして…。まぁいいけど」

「やった♪あ、そうだ!香里も一緒に行こっ!祐一の奢りだって」

そう言ってはしゃぐ親友に私は苦笑しながら丁重にお断りした。

彼女はいつだって純真そのものの笑顔を私に見せる。

それが、私には、痛い。



「じゃね、香里♪また明日」

そう言いながら彼を引きずって行く名雪を見送りながら、私はまた、思いを巡らす。

あんなに私を信頼してくれている親友と呼べる友人を、私は今、裏切っている。

全く人として恥ずかしい行為ね。

でも、今の私にはいつもと変わりない日常にも、変なフィルターがかかって見えてしまう。

もしかしたら名雪は私たちの事を全部知っていて、それで私に見せつけてるんじゃないかとか。

絶対に彼が私を選ぶ事はない、最終的に選ばれるのは自分なんだと主張しているようにも見えてしまうのだ。



「あ〜〜〜〜〜〜もう!!」


誰もいなくなった教室で、つい大声を出してしまう。



「ばーか」


それは誰に向けて言った言葉なのか、私にもよく分からない。














「え?」


次に彼に会った時、私は一つの事を決めていた。


「別れるって、え?マジで?」

面食らったような顔をしている彼に向かって、私はもう一度同じ事を繰り返した。


「マジも何も…。大体今までの状況がおかしかったんだし。ちょうどいい具合で告白もされた事だし。私はその人と付き合うから」

「おい待てよ。絶対俺のほうが香里の事好きだぞ」

全く、こいつはいい性格してる。

「あのね相沢君。貴方には水瀬名雪という素晴らしい彼女がいるはずよ?それとも何?私の方が好き?名雪より」

「同じくらい好きだ!」

「却下。そんなんじゃ納得できないわね。…もういいじゃない?もう十分でしょう?」

「やだっ!!」

「子供かっ!!…相沢君、私貴方の事好きだった。それは嘘じゃない。でもそれだけじゃどうしようもないことだって、あるのよ」

私が本当に真剣だってことを理解したのか、彼は難しい顔をして押し黙った。

ふぅ、と彼が一つ、溜息をつく。

「俺は香里…お前に恋をしてるんだ」

「そう…。でも恋は妄想。自分の望みを形にしただけの夢でしかないのよ。夢はいつか終わるものだから…。あななたには本当に好きな人を愛するようになってほしい」



「・・・・・が」

「え?」


「愛が、現実を受け入れるものなら、俺はそんなものいらない。ずっと俺が思い描いた恋を信じていたい。現実と夢の境界線なんて、そいつの腹積もり一つでどうにでもなるものじゃないか…」


「相沢君…」

そんなふうに言って俯く彼が、腹立たしくもあり、いとおしかった。

彼らしい、最高の我侭だった。


「分かってる。分かってるよ。香里の言うように夢はいつか終わるものだから。急に目を覚めさせられて、ちょっと動転してるだけだ。この世界にある全てで変わって行かないものはないんだし、俺らはその流れに身を任せるしかないってことも分かってる。ただ、どうしてももう少しだけ、その流れに抗ってみたかったんだ。変わらないものも今、ここにあるって。もう少しだけ、この幸せを感じていたかったんだ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

私は何も言い出せなかった。

そして彼もそれっきり、口をつぐんだ。










「・・・・・・・・忘れないよ」

そして、先に口を開いたのは、やはり彼だった。


「俺は、忘れないよ。この思い出は、きっと」





私もよ、相沢君。
決して楽しいだけの思い出だけではないかもしれないけれど、
確かに私はあなたを好きになって、そして、抱かれた。
その時間は誰に何と言われても幸せな時間だったし、それで後悔はしていない。

これからもすることはない。




「好きよ、相沢君」


「…ありがとう」


私たちの時間は互いに違う方向へ動き出した。


だから最後に一つ、約束して欲しい。



私もその約束を自分に課すわ。
そして必ず、約束を守って見せるから。













「素敵な男の人になってね。そして、幸せになって下さい」


















「美坂さん!会議の資料これで大丈夫ですか!?」

「ん〜、ここのグラフもうちょい分かりやすくしてもらえる?あと、ここの構成も少し変えて」

「美坂君、この資料に関してなんだが…」

「はい!今行きます!」





あれから私は大学へと進み、そのまま就職して、いち社会人として真面目に生きている。

と、自分で真面目というのもなんですが。

彼とは高校卒業以来会っていない。

だから彼が今、何をしているかは全然分からない。

でも、きっと彼は私との約束を果たそうと頑張ってくれているはずで。

だから、私も負けられない。

いつかまた彼に会う時、堂々と胸を張って会いたいから。

どう?私も貴方に負けないくらい、素敵な大人になったでしょ?って言いたいから。


だから、その時まで。






「好きよ、相沢君」






後書き。


どろどろしたSSを書いてくれと言われた時からどれくらいの歳月が過ぎたでしょうか…。

しかも結局あんましどろどろしてねぇし。

俺には無理だった…。

途中で書いては消し、書いては消し、最終案も5日かよ!をかけてやっとFinです。

ちなみに最後辺りの台詞が『いまあい』のパクリとか思った人はばきゅーん!です。

世の中知らない方がいいことも多々あります。

でも、どろどろのはずがなんか純愛ものみたいになってしまったじゃないか。

前提が浮気なんでどしても暗くなりましたがね。

まぁ浮気でも、不倫でも、人が人を好きになる、その気持ちは純粋なんだってことで、どすか?

…ダメ?